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文鎮を自称する弱者男性の生い立ち

ブログもまともに作れないようなお前の生い立ちなんて知りたくねーよっていう人はブラウザバックしてほしい。

そのぐらいはつまらん内容です。後々聞かれて説明がめんどくさいのでだらだらと過去から今に至るまで書き込んでいきたいと思っています。

誕生

日本に生まれました。
さすがにどこどこ県に生まれた、とか書くと身バレするんで書きません。

幼少期

運動が苦手な子供だった。

親曰く赤ちゃんの時からミルクを吐いたり、弱い体質だったらしい。

運動が苦手だし、健康診断、じゃなくて身体測定だっけな。体重量るやつでとにかく毎回のように痩せすぎと指摘されていた。でも自分でもどうしたらいいのかわからなかった。

習い事として水泳をやっていた。けれども好きではなかった。
水も好きではなかったし、運動が苦手だったので水泳も嫌いだった。ただ、習っていたこともあって25mぐらいは泳げるようになっていた。

水泳を習わされていたことも含め、父の言いなりだった。

昔はそれが正しいことだと思い込んでいた。けれども自分の人生的に正しかったのかどうかはわからない。

父は否定的な人で、コミュニケーションが苦手な人だった。そして、器用だった。

なんでもちょっと見たようなだけなのに、料理、縫い物、絵、それなりのことはできてしまった。
ただ、教え方は癖があり、なぜ、できない。できないと意味がない。早く正確に。そういう人だった。

私は子供の時から自転車に乗れない。親のせいにはしたくないが親のせいだと思っている。
私はなかなか自転車に乗れなかった。転んだりして痛くて泣き喚いた私に父はこう言った。

「やる気がないならやらなくていい」

冷たくそう言った。
そうして私は自転車を嫌い、練習を諦めた。
ただ父は寄り添わず、ことあるごとに

「乗れなきゃ大変なことになる」

と言ってきた。間違ってはいないと思うが、否定的な言い方しかしてくれないことがショックだっった。

父は「〇〇しないと大変だ、よくないことになる」「〇〇じゃないと意味がない」「早く正確にやりなさい」脅しだったり否定的なニュアンスを使う人だった。

また、怒った時には意味のわからない脅迫を言うような人だった。
「しかられるを通り越して怒られるということはよくないこと、それを通り越したら痛みでわからせるしかなくなる」「犬猫のように痛みでわかりたいのか」

ありえない発言だった。人として、尊厳を踏み躙って日常的に脅すような人が親として相応しいのだろうか。

父はよく怒鳴る人だった。

自分の過去に戻ります。
そんな中でも希望はあった。ゲームは買ってもらえた。その点はましな環境だったのかもしれない。

昔は、ゲームができていた。だから幼少期はずっとポケモンをやっていた。
はじめてのポケモンはソウルシルバー。楽しかった。

私には兄がいたから交換したり、対戦したりした。

ポケウォーカーを持ってポケセンとかに出かけたりした。あの頃は、余裕があったのか、まだマシだったのか。ごまかしが効いていたのか。楽しかったんだと思う。今振り返ると。

兄の話を書いたので、兄のことを綴る。

なんとまとまりのない文章なんだ。と思いますが見て欲しい。

兄はよく物に当たる人だった。
感情のコントロールがうまくできず、癇癪を起こし、壁を殴ったり、ゲーム機を殴って壊したりする人だった。
詳しいことは後述するが、兄は場面緘黙だった。

父も神経質だったので、兄と父が怒鳴りあったりする場面がよくあった。今もある。
私はこわかった。そんな環境に怯えていた。

私はまだ、その頃は家族が正しいと思っていた。怖くても当たり前なんだと。

父はよく「恵まれない子供たちがいるのだからご飯を食べられることはありがたいこと」と言っていた。

それは間違っていないけれど、私はその言葉もあり、自分はこの環境に感謝しないといけない。当たり前なんだ。と思っていた。

母は、印象があまりない、父の言いなりで、父に怒鳴られたり、責められたりしていた。
精神的なDVというやつなのだろうか。母は不安定な人だった。

母は合唱が好きで、それがきっかけだったのかもしれない。小学生の頃、必要な書類を出してきてと言われ出した。しかし、それは学校の合唱隊の申込書だった。私は状況がわからず困惑した。しかも、その当時こわい教員がいて、責められた。それはトラウマになった。私は泣き喚き、辞退した。

今でも、どうして母が嘘をついたのかわからない。けれどもショックだった。悲しかった。
でも、意思表示のできない母からのSOSだったのかもしれない。とも思ってしまう。

学校の話。

小学校では友達がいたが少なかった。
運動は下手で、球技がこわかった。

クラスではカースト的には下の方だったと思う。

私は休み時間に上級生にぶつかられ頭を縫う怪我をしたり、図工の時間に(たまたま中学校の練習かなんかで図工特化の教師がいた)ババア教員に責められ、いじめられたりした。

ゲームは家や友達の家でできていたから、まだマシだったのかもしれないね。

中学校〜高校

中学にいってから、大きく変わり始めた。

元々人生は崩壊していたのかも知れない。けれど、まだここまでではなかった。
友達とは別の学校やクラスになり、疎遠になった。

それだけならまだしもいじめられた。絞技、人格否定などの暴言、物を取られる、壊される、腹を殴られる、いろんな酷いことを色んな人にされた。思い出したくはない。
教師も味方になってくれなかった。それどころか裏で私をバカにしていたらしい。

そうして弱っていたこともあり、とある同級生※ここではAさんとします にマインドコントロールされてしまう。私は脅され、逆らえないようになっていた。離れようとしても、裏切らないで、もう一度やり直したいと言われ、私は心が壊れていたから、逃れられなかった。お金や、Miiverseのアカウントのパスワードを渡したりした。学校での行動もほとんど言いなりになっていた。

結局、母親が私の様子がおかしいことに気がつき、事態は収束した。父親は最初の方に騒ぎ立てただけで、私の気持ちを聞いたり、守ったりはしてくれなかった。悲しかった。苦しかった。私は誰にも頼れなかった。

私は不登校にはならなかった。なぜならドロップアウトが怖かったから。

家が、頼れなかったから。

正直何度も死んでしまおうか、首でも吊ろうかとか頭をよぎった。でもまだ恐怖心が残っていたから、生きていられた。

そのまま高校に進んだ。入る高校は条件をつけた。知っている人のいないところに行きたかったから、家から1時間ぐらいかかる高校に進んだ。しかし、勉強はできるほうではなかったため、頭が良いとは決して言えない偏差値のところに進んだ。落ち着きない生徒が多く、授業中もスマホを見たり、落ち着きがなく、なかなかに治安が悪い場所だった。暴力的だったり、意味不明なことを言ったり、生徒を廊下に立たせる教員もいた。全時代的で閉鎖的な環境だった。

音楽系の部活に入った。兼部ができたから吹奏楽部と軽音楽部に入った。
しかし吹奏楽部は指導力がなく、キレている教員が顧問をやっていて、指導もろくに受けられなかった。辞めようとした時にはやる気のない先輩が無理やり引き留めてきたが、なんとかやめた。

軽音楽部の方は惰性で続けていた。しかし、同級生と折り合いが合わず、とある人から胸ぐらを掴まれたり、冷たいことを言われたりした。私は怖かったし、周囲と馴染めなかった。孤立していた。

だから、受験を言い訳にして幽霊部員みたいな状態になっていた。

大学はどれがいいかわからず、勉強もできなかったから、困ってしまった。
行きたいと思っていた大学もオープンキャンパスにいってイメージと違い、萎えてしまった。

私は困っていたところ、「部活の延長線の音楽を仕事にすればいい、俺にはクリエイターの才能が眠っているはず、学校で学べばうまくいく、プロになれる。」と幻想を抱いてしまう。

そうして4年制音楽専門学校に進学する。試験?見学で体験したら実技は免除されるような緩いところだったよ。

専門学校中退、それから

そうして専門学校に入る、たしか入った際にボカロPになりたいとか訳のわからないことを講師に言った気がする。

授業は時間だけが長く、理論ばっかの座学がほとんど。ついていけなかった。周囲にももちろん馴染めなかった。個別レッスンもあったが、リモートで性格の悪いタバコを吸ったバンドマン崩れのジジイ講師に偉そうに文句を言われるだけ。

思い描いていたものとは違った。明確な挫折だった。

能力も身に付かず、大学に行かなかった、いや行けなかったことで自分を責めた。

プロにならなきゃ、もっと頑張らなきゃ、と思っていた。

ある日、限界が来た。 そうして2年で中退した。

父親にはすごく怒鳴られた。「続けるって言ったよな」とか色々言われた。

苦しかったけど、辞める以外の選択肢がなかった。そのぐらい、限界だった。

専門学校を辞めた後、通信の短大に入学する。それと並行して、当時お世話になっていたカウンセラーの勧めで精神科に初めて通院する。診断をつけたがらず、高圧的でへらへらした医者だった。そこで私は言われるがまま薬を飲んだ。ストレスは少し和らいだと思う。病院でもイライラする、単位の取り方がわからないとか、意味のわからないことを言っていたような気がする。

その後、父親に就職はまだか、と焦らされ、ハロワに行く。その後、ハロワの勧めとかもあり合同説明会に行く。

そこは人が多く、メディアも来ていた。勧誘もしつこく、こわかった。そしてブラック企業のようなブースにしつこく勧誘され、連れ込まれ、「うちはウン百万のセミナーをやっているんです」的な怖い話を聞かされ、個人情報も一部渡してしまう。パニックになった私は逃げるように後にする。とにかく怖かった。そうして自信をなくす。普通のことすらできない。説明会すらまともに受けられない、仕事も探せないならもう無理だ。そのことを医師、カウンセラーに伝えると、就労移行支援を勧められた。

そうして短大の卒業見込みがとれたこともあり、学生でありながらもなんとか就労移行をギリギリ利用できた。ただ、父親がコロナで職を一度失い、最長5年の契約社員だったことから、とにかく焦っていた。残り2年ぐらいだった。早く就職しなければ。と焦っていた。

なんとか1年ぐらいで就職するが、とにかく仕事は上手くいっていない。周囲にも馴染めず、ストレスがたまる。かといって簡単には就職できる立場でない。親も頼れない。
父親ももう無職になってしまった。家を出る。家族と決別する。そのために、金を求めている。

なんと哀れなことだろうか。

これが少し簡易的に記した、ブログ主の人生です。

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